columns | December 15, 2022

#03 演芸

TRADITIONAL JAPANESE ENTERTAINMENT[ENGEI]

ピクトグラムで取り上げた日本を構成するさまざまなモチーフを深く掘り下げて、日本の多面的な魅力を発見するEJP Letter’s コラム。第3回は、長きにわたり庶民の暮らしに根付いてきた、伝統のエンターテイメント「演芸」です。(写真は新宿末廣亭の許諾を得て掲載)

日本における、お笑いの起源

漫才、コント、ものまね、落語、大喜利……日本のテレビや動画配信サービスに目を向けると、老若男女、世代を超えて楽しめる多くのお笑い番組が放送されており、お茶の間に欠かせないものになっています。このように多くの人々を前に演じる芸能は「演芸」と呼ばれ、広く捉えると演劇、舞踊、歌なども含まれますが、狭義には落語や漫才といった、演芸場(寄席)で演じる大衆的な芸能を指します。
そもそも昔の人々は、どんな娯楽を楽しんでいたのでしょうか?お笑い好きの日本におけるその源流は、さかのぼること約1,400年前。中国大陸から伝来した、奇術や曲芸、ものまねなど幅広い芸態を持つ「散楽(さんがく)」と呼ばれる芸能が起源と言われています。火を吹いたり、刀を飲んだり、水に潜り魚の真似をしたりと、現代のサーカスのようにエンターテイメント色が強いもので、「百戯」「雑技」とも呼ばれていました。


散楽から、最古の喜劇「狂言」へ

中国から伝わった散楽は、奈良時代だった日本において、物珍しさもあって、貴族たちの間で流行したと言います。荘厳な舞や音楽を奏でる「雅楽」と並んで、朝廷からの保護を受け、752年の東大寺大仏の開眼供養の際にも奉納された、そんな記録も残っています。

しかし、庶民性の強さもあり、朝廷の保護を外れたことをキッカケに、街頭などで自由に演じられることが増え、庶民の目にも触れるように。やがて散楽は日本古来の芸能と融合しながら、「猿楽」と呼ばれる芸能に発展し、猿楽の歌謡と舞踏の要素を巧みに取り入れ芸術性を高めていった「能」、猿楽の滑稽な部分をセリフ主体で劇化した「狂言」へと枝分かれしていきます。庶民の日常生活を笑いを通して伝える狂言は、日本で初めて成立した「笑いの芸術」とも言われており、歌舞伎をはじめとする後の芸能に影響を与えました。

話芸のはじまり、御伽衆の登場

江戸時代に入って狂言は、武家の式楽(儀礼用の芸能)に指定されるなど幕府から手厚く保護を受け、上流階級のための格調高い笑いの芸術として確立。その一方で、庶民から愛される演芸も登場し始めます。それが「落語」と「講談」です。そのルーツを辿ると、戦国時代に活躍した「御伽衆(おとぎしゅう)」という職業に行き着きます。武田信玄や織田信長らの大名は、見聞を広め、長く続く戦の憂さを晴らすため、学者や茶人、頓智者らを召しかかえ、話し相手としました。彼らが御伽衆で、大名を飽きさせないよう、ユーモアの語り口で「滑稽ばなし」を行ったとされます。

そんな御伽衆で名を馳せたのが、豊臣秀吉に仕えた安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)と、徳川家康に仕えた赤松法印(あかまつほういん)です。策伝は「醒睡笑(せいすいしょう)」という笑話本を残しましたが、今日でも演じられている落語の原話と思われるものが数多く収められており、「落語の祖」と言われています。一方、法印は「太平記」や「源平盛衰記」などの歴史物を読み聞かせを確立し、後に成立する講談の礎を作ったとして「講談師の祖」と呼ばれています。


落語の萌芽は、三都から

その後、江戸時代に入り太平の世になると、御伽衆たちはその役割を失い、町に出て大名たちに語っていた「落ち」のある滑稽ばなしや軍記物語を口演。不特定多数の聴衆から代価を得る者が現れ始めます。こうした道行く人を相手に行う野外興行を「辻噺(つじばなし)」と呼びますが、その名手として京都では露の五郎兵衛が、大坂では米沢彦八がほぼ同時期に登場。人気を博して、後に「上方落語の祖」と称される存在になっていきました。一方、江戸では鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)が登場し、諸家に招かれて座敷噺を演じたほか、仮設の小屋を建てて興行を行い、「江戸落語の祖」と称されます。

このように京都や大坂を中心に発展した上方落語は大道芸から、江戸落語はお座敷芸からそれぞれ発展。このルーツの違いが見て取れるのが、上方落語の「見台(けんだい)」と呼ばれる小さな机を前に座り、見台を小さな拍子木で打ち鳴らすという演出です。これは大通りなどの屋外で行うのが主流であるがゆえに、派手に演じて聴衆たちの足を止める必要があった名残だと言われています。対して江戸落語は、お座敷で演じられたため、じっくりと物語の内容を聴かせる芸風が今も受け継がれています。

寄席の誕生

屋外や座敷で演じられていた落語が、常設の興行小屋で木戸銭(入場料)をとって演じられ始めたのは、18世紀後半のこと。多くの人が集まったことから、「人を集める」の意味を持つ「寄せる」から派生して、演芸小屋は「寄せ場」や「寄せ席」と呼ばれるように。次第に略されて「寄席(よせ)」となりました。同時期には歌舞伎も演じられていましたが、庶民にとってはやや贅沢な娯楽でした。それに対して、落語寄席は、屋台蕎麦と変わらぬ安価で楽しめるとあって、気楽に立ち寄れる身近なエンターテイメントとして、江戸や大坂を中心に大きな人気に。江戸時代後期には、江戸の市中に数百の寄席が存在したと言われています。

寄席をいろどる「色物」

多くの寄席では、落語や講談が中心でしたが、その合間には気分転換の意味もあり、音曲や曲芸、手品など種々雑多な演芸も盛んに演じられました。それらは、興行の主体となる落語などの彩りになる芸として「色物(いろもの)」の呼び名が定着。現代の寄席を訪れて番組表(出演プログラム)を眺めると、一般的に落語家や講談師は黒文字で記載されていますが、色物の演者は赤文字で記されており、歴史の名残を見ることができます。現在、大きな人気を誇る漫才も、そんな色物の1つでした。

漫才の意外な出自

色物だった漫才も、最初から今のスタイルだったわけではありません。そのルーツは、約1,000年前の平安時代。新年にめでたい言葉を歌い舞い、繁栄と長寿を祈った伝統芸能「萬歳」に由来すると言われています。語り役の太夫(たゆう)と、おどけ役の才蔵(さいぞう)と呼ばれる2人1組で家々を回るのが基本的なスタイルで、太夫がおめでたい言葉を節にのせて歌唱し扇を広げて舞い、才蔵が鼓で伴奏し、合間に面白い言葉を入れる。それに対して太夫がたしなめる……まさに才蔵がボケで、太夫がツッコミ。ここに漫才の原点がありました。


萬歳から万才、漫才へ

正月を彩る祝福芸であった「萬歳」が、大衆芸能の道を歩み始めるのは、明治時代以降。踊りの音頭取りだった玉子家円辰(たまごやえんたつ)が、江州音頭に太夫と才蔵の掛け合いの要素を一体化させ、舞台で演じて人気を集めました。そんな歌舞音曲に萬歳の笑いをミックスした芸能は、「万才」と呼ばれるように。音楽ありきの掛け合いだった「万才」でしたが、昭和時代の初め、1組のコンビの登場でそのスタイルは様変わりします。楽器を持たず、歌も歌わず、会話だけで笑わせる「しゃべくり漫才」を横山エンタツ・アチャコが始めると、一躍この形式が主流になり、表記も「漫才」に統一されました。特に大阪では、吉本興業が設立されてから、漫才が寄席の主流を占めるようになり、現在に至ります。


今、演芸を楽しむには

戦前には都内だけでも100軒以上が存在した寄席ですが、映画やテレビの登場など、エンターテイメントが多様化するにつれて、その数は減少。とはいえ、江戸時代からの寄席の伝統を受け継ぐ、上野の「鈴本演芸場」や新宿の「末廣亭」、笑いの大劇場・大阪の「なんばグランド花月(NGK)」などさまざまな演芸を楽しめる演芸場が存在しています。次の休日は、画面上では決して味わえない、ライブ感をもって日本文化の真髄を体感すべく、色とりどりな芸達者たちが待つ演芸場に出かけませんか?

日本に根を下ろす、さまざまな演芸

落語

江戸時代に成立し、現在にも受け継がれる日本独自の話芸の1つ。機知に富んだ結末(「オチ」または「サゲ」と呼ぶ)で話が結ばれるのが特徴。1人で何役も演じ、会話主体で身振り・手振りのみで物語を進めていく。大別すると、お座敷芸から発展した江戸落語と、関西圏を中心に発達し、大道芸に端を発した上方落語の2つがある。

講談

500年以上の歴史を持つ、日本伝統の話芸。題材は、講談の「講」が歴史という意味を持つように、主に歴史上の偉人や武将にちなんだ物語が多い。「釈台」という小さな台の前に座り、張り扇(はりおうぎ)と呼ばれる紙製の扇子で釈台を叩き、メリハリをつけて物語を読み進めるのが特徴。淀みなく流れるような心地よい日本語のリズムを堪能できる。

浪曲 

三味線を伴奏として、独特の節をつけて歌う部分と、「啖呵(たんか)」と呼ばれる語り部分を1人で口演する演芸。「浪花節(なにわぶし)」とも呼ばれる。節は物語や登場人物の心情を歌詞にしており、啖呵は登場人物を演じてセリフを話す。明治時代に寄席芸となって発展。落語、講談と並ぶ日本三大話芸として、庶民に愛された。

漫才

軽妙かつ滑稽なトークの掛け合いをして、観客を楽しませる話芸。主に2人組であることが多く、ツッコミとボケの担当に分かれ、言葉遣いや言い回し、間の取り方、身振り手振りをメインとして話術のみで笑いを取るのが特徴。元々は正月を彩る祝福芸だったが変遷を経て、大正末期から昭和初期に現在の会話重視のスタイルが定着した。

太神楽

主に獅子舞をはじめとする「舞」と、品玉や曲鞠、皿回しなどの「曲」から成る演技。傘を回しながら「おめでとうございま~す」の掛け声で一世を風靡した、海老一染之助・染太郎の曲芸が代表例。元来は、神職が各地を回って獅子舞などを演じる神事芸能だったが、余興部分の曲芸が次第に盛んになり、江戸時代末から寄席芸能として人気を集めた。
*品玉:手玉や短刀などを空中に投げ上げて、巧みに受け止める曲芸。 

*曲鞠:きょくまり。まりを使う曲芸。

奇術 

種や仕掛けを用いて、観客を惑わし、楽しませる伝統芸能。マジックとも呼ばれ、そのルーツは奈良時代の散楽までさかのぼる。大規模な装置を使うものから、細かな道具を使って手先のテクニックを見せるものまで種類はさまざま。話術や観客のやりとりも含めて、楽しませることが多い。江戸時代には、稲妻のごとく手を素早く動かすことから「手妻(てづま)」とも呼ばれた。

紙切り

観客のリクエストに応じて、鋏(はさみ)を使い下地のない紙から、即興でさまざまな絵柄を切り出す伝統的な演芸。歴史は古く、江戸時代の宴席で始まったとされる。切っている間は、観客と対話しながら喋り続けることが多く、話術も求められる。作品は観客にプレゼントされるのが慣例で、参加型の演芸といえる。

ものまね

人や動物などの声や話し方、歌い方、音、仕草、身振りなどを模写する演芸。江戸時代後期に、有名人ものまねの先駆けとなる歌舞伎役者の声をまねる「声色遣い(こわいろづかい)」が発展、芸として確立された。また江戸時代から、歴代の江戸家猫八で知られる「動物の鳴きまね」という分野もあり、洗練された演芸として寄席で親しまれている。

コント 

滑稽な寸劇(短い芝居)のことで、いわば喜劇のコンパクト版。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」を意味する「conte」に由来する。会話重視の漫才に対して、場面やキャラクター設定があり、演者はその人物になり切って芝居を演じるのが特徴。セットを組んだり、化粧や衣装を着たり、小道具や音響を使ったり、様々なものを駆使して笑いを生み出す。

参考文献

・コトバンク

・「落語ハンドブック(第3版)」三省堂 山本進編

・「日本の伝統芸能を楽しむ 落語・寄席芸」偕成社 大友浩

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